徳川家康に剣術指南を請われたほどの剣豪
大永7年、柳生家厳の子として大和国(現在の奈良県)に生まれました。
若い頃は剣術を好み、新当流や富田流を学んだといわれています。
剣の腕は相当なもので近畿一と称されるほどの強さでした。
34歳の頃、新陰流流祖として名高い上泉信綱に試合を申し込みましたが、信綱の活人剣の前に敗れます。
信綱の強さに心酔した柳生石舟斎宗厳は、即座に弟子入りしたと言われています。
修行の末に、剣を持たずして剣に勝つ「無刀取り」の奥義を極め、信綱には新陰流の正統継承者として認められました。
その後、家康本人を相手に無刀取りを披露する機会があり、奥義に魅了された家康に剣術指南を頼まれます。
しかし、すでに老齢であった柳生石舟斎宗厳は、五男の宗矩を推薦しました。
宗矩が徳川家に仕えたことにより、柳生新陰流は名を馳せることになります。
晩年は子どもたちの身を案じながら、故郷の奈良で静かに息を引き取りました。
新陰流正統継承者にして柳生新陰流の開祖
永禄6年、34歳の頃に柳生石舟斎宗厳は新陰流の流祖である上泉信綱と出会います。
それまで新当流や富田流など、さまざまな剣術を学んでいた柳生石舟斎宗厳は自らの強さを確かめるべく、奈良に門弟と共に訪れていた上泉信綱に試合を申し込みました。
しかし、新陰流の活人剣を相手に三日間も勝負を挑み続けましたが、一度も勝てませんでした。
自信は打ち砕かれ、信綱の強さに心酔した柳生石舟斎宗厳は、その場で新陰流に弟子入りを志願します。
永禄7年、信綱は柳生石舟斎宗厳に「無刀取り」の公案を託し、京へ旅立ちました。
翌年、再び柳生石舟斎宗厳のもとを訪れた信綱に、自らが作り上げた「無刀取り」を披露し、新陰流正統伝承者として認められます。
親として子を愛した侍
剣の道を極めた柳生石舟斎宗厳は、徳永家康に剣術を教えてほしいと請われます。
しかし、柳生石舟斎宗厳は高齢であることを理由に、息子の宗矩を推薦しました。
その結果、宗矩は徳川家で認められ出世していきます。
柳生石舟斎宗厳は、我が子に出世の道を譲ったのかもしれません。
晩年は故郷の奈良で静かに暮らしましたが、我が子や孫たちの心配をしていたようです。
大切にしていたであろう、上泉信綱から与えられた新陰流の継承者である証明の印可状を、孫の利厳に授けました。
また、戦で負傷し体に障害があった息子の厳勝にも皆伝印可状を授け、徳川家に仕えた宗矩にもまた皆伝印可状を授けたといいます。
その直後の慶長11年、78歳にして柳生石舟斎宗厳は、この世を去ります。
亡くなる直前まで子や孫の行く末を案じた柳生石舟斎宗厳は、真っ直ぐで深い愛のある侍だったのかもしれません。
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